田名後健吾さん

私の心の原風景は、天狗山のテレビ塔から見下ろすのどかな土生の町並みと海を行き交う船。

私は、旧・因島北高等学校の昭和61年卒業生です。上京して今年で35年目になりますが、因島と聞くと今でもこの風景が脳裏に浮かびます。

田名後姓は、岩城島がルーツのようですが、私自身は生まれも育ちも因島。土生幼稚園、土生小、土生中、北高と通いました。

子どもの頃の土生は、造船業が最盛期で活気がありました。日中は工場からドンカンドンカンと、金属を叩く音が鳴り響いていたものです。今でこそインドアを好む自分ですが、当時は毎日、学校から帰ると虫取り編みを持って山を駆け回る元気な少年でした(現在は大の虫嫌い)。

好奇心が強く影響されやすい性格だった私はいろんなものにハマりましたが、その後の人生に大きくつながったのが将棋です。中1のときにクラスで流行。面白そうだと思った私は、押入れの中で埃をかぶっていた父の形見の将棋盤と駒を引っ張り出し、入門書を買って覚えました。

父は生前、将棋も楽しんでいたようですが、どちらかというと囲碁のほうに熱心でした。私も何度か教え込まれそうになったのですが、まだ小さかったので逃げ回っていました。

将棋は狙いが分かりやすくて肌に合いました。後年、父の机の引き出しから将棋の認定書が出てきて、アマ初段の腕前だったと判明。父と一度でいいから対局してみたかった。

勉強そっちのけで将棋に熱中した私はプロ棋士に憧れたりしましたが、周りに指導者がおらず指す相手も少なかったので上達は遅く、次第に興味は別の分野に移っていきました。

高校2年の冬、大林宣彦監督の映画『さびしんぼう』のロケが因島でもあり、私は寒空の中で夜通し見学しました。感動した私は、将来は役者になりたいと思いました。

高校を卒業して上京。新聞販売店で住み込みをしながら奨学金をもらって専門学校に通い、芝居を学びました。卒業後は仲間たちと劇団を作って公演をしたりして、それなりに楽しかったですが、これで食っていけるのかと考えると、才能の限界を悟って夢をあきらめました。

高卒で定職がない25歳のフリーター。因島に帰ろうかと考え始めた頃に、むかし愛読していた月刊誌『将棋世界』を久しぶりに見て将棋熱が再燃。校正アルバイトの募集を見て飛びつきました。それが縁で日本将棋連盟職員となり、『将棋世界』の編集部に配属されたのは幸運でした。30歳を迎える頃でした。

以来、22年。現在は編集長として雑誌作りに励んでいます。大フィーバーを巻き起こした藤井聡太七段の登場で将棋ブームが到来し、多忙ながら充実した毎日です。

さて、昨年末に久しぶりに帰省しました。因島に帰ると必ず立ち寄るのが、あいはぶ通りにある興文館書店。昔と変わらぬ佇まいで迎えてくれました。中・高時代はここで『将棋世界』を買っていましたし、性の情報も含め十代のサブカル的知識は、すべてこの書店で学んだといっても過言ではありません。大変お世話になりました。現在は息子さんが後を継いでいますが、ご両親もご健在で店頭に立っています。

仕事柄、本屋に入ると『将棋世界』がちゃんと店頭に並んでいるかをチェックするのがクセになっています。この日は新刊の発売日で、数冊が平積みされていました。すると、自分の前を歩いていた見知らぬ年配のお客さんが真っ先に『将棋世界』を手に取ってレジへ。私は発売日に開店と同時に買いに来てくださるお客さんが因島にいるんだと感激し、思わず「ありがとうございます」と声をかけてしまいました。

編集長ですと挨拶すると、「ああ、田名後さん?」と私の名前まで知ってくださっていた。この仕事をやってきてよかったと痛感する瞬間です。

江戸時代の天才囲碁棋士・本因坊秀策の生地として有名な因島。この島に将棋ファンが何人いるのか分かりませんが、『将棋世界』もぜひお願いいたします。

因島高校同窓会会報誌30号掲載

30号(2020年2月10日発行)