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村上 重美
Last Update:07/31(木) 18:31

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卒業年1957/昭和32
出身校旧因高
お仕事日本新聞協会専務理事
性別男性
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 ▼コメント
【プロフィール】

1938年 因島市で生まれる
1957年 土生高(現因島高)を卒業後、三浪して法政大に入学
1964年 日本新聞協会に入る
1981年 5年間、日本記者クラブ事務局に出向
1995年 日本新聞協会の理事待遇
1999年 日本新聞協会の専務理事に選任

3浪目で見つけた道/活字メディアの復権へ奔走

 父は地元の日立造船に勤めていた。祖父が伝馬船を造る姿も見たことがある。幼い時から船が身近だったので、許されるのなら、大学に進学して、造船技師になりたいと思っていた。だが当時、造船学科があったのは、阪大と九州大だけ。現役、一浪、二浪とトライしたが、結局は入学できなかった。
 三浪目は、因島でブラブラしながら暗中模索していた。そんな時、土生高(現因島高)時代に、情熱を燃やした学校新聞作りを思い出した。結局、記者にはなれなかったけれど、こうした活字の世界で働くことができたので、まんざらの人生ではなかったと思う。確かに挫折の連続だったけど…。

東京・日比谷公園横に建つ日本新聞協会。その正面には、鉛を使って印刷していた当時を思い出させるエントランスがある

 確かに今は、映像の時代でしょうが、新聞への信頼度は依然として高い。活字は読まれなくなったといわれるけれど、いざとなったら新聞がどう主張するかは注目される。特に、地方の活性化には、その地方のメディアが大切な役割を果たす。もともと、新聞社に入りたかっただけに、なおさらそう思う。

日本新聞協会に入ってすぐに、記者たちの取材活動を取材する仕事を任された

 新聞協会報というタブロイド判の機関紙(週一回発行)に、記事を書くのが僕の仕事だった。ちょうど東京五輪があって、日本が金メダルを取った女子バレー決勝や、まるで哲学者のような形相で走るマラソンのアベベを横目で見ながら、「取材現場」を取材した。直接的な取材ができず、欲求不満もあった。僕も若かったですから。

「取材現場」の緊張を、肌で感じた経験がある

 日本記者クラブへ出向中は、当時のサッチャー英国首相やアラファトPLO議長ら、世界の要人たちの会見を、取り仕切った。印象に残っているのは警備の物々しさ。国の威信にかかわる警備だが、取材に入る記者たちへの手荷物チェックは、複雑な気分だった。でも会見して、帰国してからすぐに暗殺されたケースも一、二ではなかった。

全国の新聞、通信、放送メディアなど百五十五社が加盟する日本新聞協会。村上は事務局トップの専務理事として活字文化の復権を目指す

 若い人に、どれだけ新聞を親しんでもらうかが最大の課題。その意味でもNIE(教育に新聞を)には、力を入れたい。新聞を教材に、働く社会を学んでほしい。長い目で見れば、活字の読者の維持にもつながる。自分自身、発行日こそ、なかなか守れなかったが、高校時代に出していた学校新聞が、その後の人生に影響を与えた。

因島を後にして四十五年になる。個人的にも応援したいと、古里にエールを送る

 新聞社がからんでいる囲碁の七大タイトル戦がある。本因坊、棋聖、名人、王座戦…。この秋に開催の王座戦を入れて、五つの大会を実施したことになる。囲碁をテーマにした漫画も、子どもたちの間ではブームだ。専務理事の立場というよりは、一個人として因島の取り組みに協力したい。この前の碁聖戦で、実施したプロ対アマのトーナメントなんかは、素晴らしい試みではないでしょうか。

(文中敬称略)

【提言】囲碁を活用 宿泊客誘致

 沈滞する古里を思う時、解決策の一つは観光客の確保ではないか。
 因島には「市技」でもある囲碁がある。本因坊秀策の出身地ということで97年に制定された。その中にもあるボランティアならぬ「碁ランティア」制度をもっと活用したらいい。観光客などの宿泊者が、囲碁を打ちたいと思った時に、実力が似た人を呼んで、相手をする仕組みだ。
 よそでは、なかなかまねできない真心がこもったもてなし。ちょっとした発想だが、地域との交流にもなる。因島が持つきれいな海、静かな島の観光資源がより生かされるのではないか。

中国新聞2002年10月8日「びんご人国記ふるさと応援団」より
http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/bingo/3-9.html

【参考リンク】

社団法人 日本新聞協会
http://www.pressnet.or.jp/

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